若さと知性
肉体の最盛の訪れのなんと早いことか。知性を置き去りにして、人間の迎える全ての契機より早く、恋人の死に目に駆けつけるがごとく息を切らせてこの身に訪れる。夏の色濃い煌めきの激しさで我々を惑わせておきながら、気の多い人間の心変わりのように、あまりにも突然にこの身から去っていく。
知性の実りが遅いのか、人間の肉体の成熟が早いのか?
いや、知性が未熟ゆえのこの成熟か。
十代、二十代の血色のいい若々しさ、夏の木々のような濃緑のみずみずしさ。それらを心行くまで楽しむには知性など、子供の動向に目を光らせる親のように邪魔にしかならぬと言わんばかり。
しかし、もて余しさえするこの時期この衝動。
よもやこれは神の成熟のなごりなのではないかという気さえしてくる。
神が我らを創り上げた際、ただあるがままの肉体だけが神の影響を受けて、最盛期だけ似通ってしまったのではないか。
そして、より困難な、扱いの難しい、知性の成長の速度だけは近づけなかったのではないか。
だとしたらなんと悲しいことであろう。
我らは目前の真偽の判別すらままならぬというのに、この愚かしさ。
賢者以外は知性の成熟を迎える前に死を迎えるのであろう。
この不出来さこそが、人間の苦しみの根源に他ならぬのではないか。