ザマス/ブラック(ロゼ)感想 2
彼の威光はまさに陽光。
世界の穢れを浄化する光、世の憂いを洗う神の水。
人間は身の程知らずに神に近付いたから灼かれたのだ。
離れていれば数多の利益をもたらす太陽も、近寄れば焼け死ぬように。
まるで人間とは頑強で強靭な細菌のよう。
人間は黙って滅ぶべきだったのだ。
抗ったから全て消滅したのだ。
自然の、宇宙の法則が乱れたのだから滅びは当然の結果といえる。
もし正しく生きれば、あの世で共に過ごす幸せもあっただろうに。
彼の管理下に置かれた世界は、オーケストラのハーモニーのように調和した美しさを持っていた筈なのに。
鐘楼の音かクリスタルボウルの音か、あの神聖で清浄な空気。
いくら訴えても無意味であると、万感に揺れる心の有り様を、まざまざと映す瞳孔の揺らめきの美しさ。
もはや期待はできぬと悟り、全てを諦めたように力無く細まる目。
人間さえいなければ、彼の心は朝日に光る雪原のように無垢なままであっただろうに。
彼は一貫して美しさを求めている。
「美しさの頂点」「真の美しさが蘇る」
彼が求めた力は平和のためのものであった。
しかしそれは暴走した。なぜなら彼は孤独であったのだから。
人間は彼の愛を拒絶し、自ら死を招いたといえる。
なぜならば、人間もまた世界の中にある存在、世界の中の一つでしかない。
人間は下界における最上の存在ではなく、神の下の世界の内にあるだけものである。
だというのに、彼から貸与された己の星を壊し、あまつさえ他の星々をも破壊するという蛮行を行うならば、諫められるのは当然。
人間社会においてでさえ、他人を無意味に傷つけて赦される筈がないのは言うまでもない。
傷付ける対象が己も含め、神の創造物ともなれば、種、それ自体が制裁を賜るのは自明の理。
もし正しく生きていれば、彼は過ちを犯す愚かな我々を、見捨てることなく見守ってくれただろうに。
無論、正しく生きるとは一切の失敗をしない生ではない。
彼は人間は学習しないと言った。
然るに、過ちから学び取り、改善する努力を行うことが正しい生き方。そうとらえていいのだろう。
なぜ彼等から悪逆な人間が生まれたのか。
恐らく界王神とは運命のまま生み出し、ただそれを見守ることしか赦されていないのだろう。
つまりどのような存在を生み出すかは認められていない、あるいはできないのだろう。
そして、界王神は直接の指導や是正も認められてはおらず、また多くの界王神は達観した精神からそれを必要とは感じない存在と思われる。
その中で彼は野花の中に凛然と咲く唯一の薔薇の如く、強い個の意思を持つ神として生まれた。
その特異な在り方ゆえに、初めて積極的な人間の――悪の根絶を意識する存在となった。
すなわち今までの世界では悪逆をいさめる、生み出さないということは不可能であった、ということではないだろうか。
己を人の身に堕としてまで今まで放置された悪を根絶しようとした。
それは世界全ての責任を取ろうという、毅然として高潔な行動に他ならない
。
世界の為に責を負わねばならぬ、それをするのが己の使命と、自分の身を針で刺すように言い聞かせる姿の痛ましさたるや目を逸らしたくなるほど。
彼はあの景色に何を見ていたのだろう。
白亜のような冷たい太陽の浮かぶ冷たい世界にただ一人、誰にも理解されることなく、寄り添われることもなく。
嵐の中に起きた渦に巻き込まれる木の葉のごとく、抗い難い激しい時流のうねりになす術なく呑み込まれ、誰の手も光も届かぬ冷たく苦しい深海に沈んでいく姿のなんと儚いこと。
冬に散る白百合も、薄いガラスの蝶でさえ、あれほど悲しく切なくはないだろう。
芸術品とは他人に愛されることで芸術品として成立する。
なのに、誰も認める者のいない世界において何よりも美しくあろうとする彼は、永遠に完成することのできない芸術品。
それは永久に愛されない魂のようなものなのではないか。
薔薇の棘は外に向くものだが、彼のそれは己の内にも食い込んでいるのだろう。
あるいは人間の野蛮さに触れる度、彼の心だけに刺さり続けていたのか。
あの凶行は棘を抜こうともがいていただけなのかもしれない。
彼を野蛮であると言い切れる者がいるのだろうか。
なるほど、ゴワスの穏やかな人格は理想的なものだろう。
しかしあれは愛する者が殺されても、とにかく死刑をと、合法的なのだから殺してやれなどと思わず、ただ罪であるから相応に罰されるのがただ道理であると悠然に受け入れるようなものだろう。
果たしてどれほどの人間がそのような人格者だというのか。
神とはゴワスや界王神のようにあるべきであり、ザマスは人間に近い未熟な者だというのなら、彼の姿は我々の姿である。
なればこそ、一体、どんな人間が非難できるというのか。
仮に広い度量で多様性を認めるのが神らしさであるとするならば、悟空は神に等しいと言える。
彼は感想は述べるが対象の在り方を力で変えようとはまずしないのだから。
そんな“原作の彼”とザマスが戦いの最中に各々の世界観を論争することがあったなら、どれほど興味深い価値観を我々は得ることができただろうかと思うと残念でならない。
ザマスの気持ちも認めることはできないだろうが、それも一つの世界観であると認めはしたかもしれない。
もしその態度を目にした時、ザマスは果たしてどんな思いを抱いただろうか。
ロゼへの変化は、触れたら砕ける薄氷や薄ガラスのような心から、どれほどの熱でも溶けぬ黄金の精神への、錬金術のごとき神秘的な変化は、融解した鉄の流動を見ている気にさせられる。
彼は繊細だ。克己心が強く、理想主義だ。
決して鈍感ではなく、図太くもない。
人間がいる限り、世界の全てがストレスとなり彼を追い立てるだろう。
その間、彼は苦悩に没頭した状態だ。
しかし世界を平定したのち、苦しむ理由が無くなり、思索に耽る余裕ができた時、彼は永遠の孤独に耐えられるのだろうか。
調和した世界が、彼を癒やし続ける賛美歌となり、苦しむことがなければいいのだが。
湖畔に咲く百合、冬の夜明けに咲く月下美人。
ロゼはその名の示す薔薇。夜に咲く赤薔薇、無色の毒に浸したカーネーション、血と夜でできたダリア。
周りに染められてしまうような純白の布であるザマスと、周りを染めるような夜の海のようなブラック。
一つの敗北が、一つの存在をこうも大きく分けるとは。
罪と芸術は等しいものであり、人を最も魅了する罪は殺人である。
その性質は凄絶な暴力性であり、ならば芸術とは男であろう。
ゆえにザマスは麗しく、ロゼは美しい
。
ターレスの暴力性は、それに美しさが付随したものであり、ロゼのそれは美しさの為に付き従う暴力性なのだ。
ザマスが視野狭窄に陥るのは致し方ない。
彼は、人の愚かさという茨の上を、理想主義の克己心と鋼のような自制心で、血まみれになっても歩いてきたのだろう。
激痛にさらされた状態で平静を保つなど、いったい誰にできようか。
しかし外から見ている他人には、彼が苦しみの渦中にあり、周りが見えなくなっていることを冷静に察することができるだろう。
ならばその苦痛の道から助け出し、治療して落ち着いたところで、他の穏やかな道を示してやれば良かったではないか
。
苦痛にさらしたまま、その眼前の事実さえ認めず説教して何になる。それは拷問と変わらないではないか。
界王神よ、無意味な存在など無いというのなら、彼の存在の意味とは何か。
彼は、彼らは消滅するために生まれてきたというのか?